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ジェンダー/セクシュアリティ (思考のフロンティア)

田崎 英明
岩波書店
ISBN: 4000264338  紀伊國屋, Amazon, WebCat
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myta :

 たとえば、こういう例を考えてみよう。「私はコップで水を飲む(飲んだ)」と語ることと、実際に(もう一度)コップで水を飲むこととは何が違っているのか。私たちはコップをつかって水を飲む。何かをつかみ、それを用いて、何かをする。それでは、ことばもそうなのだろうか。私たちはことばをつかって何かをするのか。たしかに、何かをする。ことばをつかって命令したり、唆したり、ドキドキさせたりする。言語理論のいうところの遂行的発話である。それでは、言語を使用するということは、コップを使用するということと変わらないような何かなのだろうか。それとも、言語にしかできない何かが存在するのだろうか。使用されたかぎりでの言語である言説は、装置の存在を表現すると私たちはいった。だが、言語を使用しているとき、少なくとも何かを音声によって語っているとき、私たちは、同時に食べることはできない。あるいは、それが口であっても手であってもいいのだが、言語は、それが関わる器官をある意味で独占してしまい、その器官を動物的生から引き剥がしてしまうのである。もちろん、このような引き剥がし、器官的なものから非器官的なものへの移行は、一方では、言説におけるポジション(とその位置関係)へと、生を引き渡す基礎となるものではあるだろう。
 しかし、それだけだろうか。私としては、言語による非器官的なものへの移行に、「自己」との関わりを見ておきたいのだ。つまり、言説および装置は、ポジション(それは非器官的であるが、基本的にはすべて「私」である)へと器官としての身体を配分する。ポジションの集合と器官的身体の集合との対応をつけるのが、言説であるといえる。それに対して、「自己」はポジションではないし、また、それは内在的生であるのだから、当然、器官的な身体でもない。言語を装置とは別の平面に展開できないものだろうか。可視性としての器官的身体からも、諸々の「私」を配分する言説からも逸れていって、動物的生のただなかで内在的生を実現するような、そんな、言説的に振舞わない言語のあり方。それは、言語の休暇などというものではなくて、むしろ、言語のゼネストとでもいった方がいいものかもしれない。たとえば、言語を、誰もけっして、「私」のものとは思えないように使うこと。誰が読んでも、「これは私の言語ではない」と呟くことしかできないように用いること。まずは、言語に対する「私」の支配権(サディズムの基本はこれである)を放棄すること。
 このような「私」から「自己」への移行ないし逸脱に、セクシュアリティはどう関わってくるのだろうか。(p.26-)

 もしも、私たちの体細胞のレヴェルで細菌的セックスが行われたら、いったいどうなるのか。それを描いたのが、デヴィッド・クローネンバーグが監督した映画『ザ・フライ』(1986年)である。そもそもは1958年のカート・ニューマン監督のSF映画『蠅男の恐怖』(原題はどちらもThe Fly)のリメイクである。
[……]天才科学者は、自分自身を実験台にして転送を試みることになる。その結果が、転送機に紛れ込んでいた蠅との遺伝子レヴェルでの融合である。転送の後しばらくは、彼は異常な能力と精力を示す。彼はいう。自分は肉fleshに目覚めたのだ、と。肉とは何のことだろう。それと身体bodyとは違うのだろうか。もちろん、「肉」といったときには、そこに「肉欲」の響きもあるに違いない。
 だが、それだけではあるまい。肉は、人間が蠅になっていくときに、より正確にいえば、人間でも蠅でもない蠅人間(転送機のコンピュータは適切にも、彼のことを「蠅人間」とは呼ばず、「ブライトン蠅」と固有名をつけて呼ぶ)になっていく過程で露出していくものではないか。人間の身体を構成する諸器官がかたちを失い、蠅のそれに置き換わっていくなかで実現される何かである。種への帰属から個体が逸脱していく、いわば、個体化の暴走において垣間見られるもの、それが肉である。この科学者が肉に目覚め、性欲に目覚めるのではない。細菌的セックスによって、肉が、彼において目覚めたのである。「彼」はこのプロセスの主語ではない。それは場所を、トポスを示す。そこにおいて肉が目覚めること。純粋な個体化。
 このように純粋な、暴走する個体化においては、時間性は歴史化されない。歴史とは、地層化され、ある閾をもって区切られた形成物の積み重なりであるが、そのような歴史性とは違う、アナクロニックな時間性こそが、個体(化)の時間なのである。蠅も人間も、種として見れば地層であり、歴史化されている。しかし、個体は、およそすべて個体というものは、絶対的記憶への参与としてのみ考えられる。それは地層であるよりも、その褶曲である。細菌はセックスにおいて非歴史的な記憶を自己へと折りたたむのである。(p.57-)

 自己が構成する共同性を私は共同体と呼びたい。それは、社会的なものとは区別されるだろう。共同体は、新しくやって来た者(パゾリーニの『テオレマ』でのテレンス・スタンプを思い出そう)によって誘惑され、自分のこれまで来た道を踏みはずす者たちによって構成されている。それに対して、社会は、新しく来た者に命令する。黙れ、私のいう通りにしろ。私はお前の手本である。私を模倣せよ。社会はそこに新しくやって来た者からは学ばない。反対に、新参者に教えようとする。この意味で社会は閉じている。ところが、共同体は、新しい者に誘惑され、学ぶのである。つまり、共同体はつねに開かれているのである。共同体の方が個体のもとに到来するのだ。
 ルネ・シェレール(彼の書くものはどれもすばらしい)は『歓待のユートピア−−歓待神[ゼウス]礼賛』(安川慶治訳、現代企画室、1996年)で、ふつうは極めて評判が悪い、フッサールの間主観性の理論(他我は自我によって構成されたものであるとする)を擁護している。シェレールの論点は大切である。彼もいうように、最近私たちは「他者(異なる存在)と出会う」ということばかり聞かされつづけている。だが、そういった議論は「同じもの」同志ならうまくいくことを安易に前提としてはいないだろうか。けれども、文学や映画における分身のテーマの扱いを見れば分かるように、本当に同じもの同士が出会うと悲劇的な結末を迎えてしまう。同じもの、対等な者のあいだの愛(ベルサーニの『ホモズ』のひとつのテーマ)はいかにして可能なのか。このことはけっして自明ではない。同じものの共同体としての自己たちの共同体はいかにして可能なのか。この問は開かれたままである。
 共同体は開かれている。したがって、その境界を区切ることはできない。ということは、存在するのはただひとつの共同体でしかない。それは、「人類」である。あるいは、こういうべきかもしれない。人類というのは、誘惑されて社会から道を踏み誤るその瞬間に形成される存在である。晩年のフーコーのセクシュアリティ論が開く政治的地平は、このような人類への参加の呼びかけ、誘惑をはらんでいる。私はこの誘惑に応じるのだろうか。そして、あなたはどうするのだろう。(p.94-)

「知ること」には、それぞれ対応する器官がある。だが、「考えること」(知性の振舞い)には固有の器官がない。(p.112)

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最終更新 : 2007-01-26 20:11:54 +0900
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