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使える!確率的思考 (ちくま新書)
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小島 寛之
筑摩書房
ISBN: 4480062726
紀伊國屋,
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hiroyukikojima2 :
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小飼 弾氏書評より。
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「世界知」を我々はどうやって「生活知」に取り入れているのかを解説。
そのキーワードが、「動的確率」。そう。この「動的」というところが本書のタイトルに書かれていない大事なキーワードである。確率というと最も重要な法則として「大数の法則」というのがあるが、実はこの大数の法則で切るところまでが、「古典的確率」、すなわち「静的確率」で、これは意外と使いづらいのだ。
まずなんといっても、それだけのサンプルを集めるのが大変であるということ。実際の思考において、古典的確率から知見を得ようとすると、往々にして集計が終わった頃には知見を必要とした事態も終わっていましたという、「天気予報のジレンマ」に陥りやすい。一日先を予測しようとすると一年かかるというあれだ。
そしてなにより、ある事象に対する確率のほとんどは実は静的でないこと。今日の分まで分析が終わったとしても、その分析が明日役に立つとは限らない。今日正六面体のサイコロを使っていたと思ったら、明日は正二十面体のサイコロが出てくるかも知れないのが人生である。
そう。確率が本当に「使える」ようになるのは、動的な事象を確率で切れるようになってからだと言って良い。もちろん基礎として「静的確率」があるため授業ではこれを先に教えざるを得ず、それゆえ確率の授業が退屈だと勘違いもされるのだろうけど、実は確率は動的に使ってこそ実践的になる。
そのもっともシンプルにして強力な応用が、ベイズ統計だろう。本書もこれには第七章まるまる一冊をあてて解説している。blogosphereを見ると、この部分に関する言及が一番多かったように思えた。一番「使える!」と感じたからだろう。大風呂敷を拡げると、我々の脳の学習というのは、結局ベイジアンフィルターを更新することだったのかとすら思える。あるいは、静的な大数の法則による確率的結論が「世界知」で、自分のベイジアンフィルターの状態が「生活知」といったところか。
本書はそこからなぜ「真似することに合理性があるのか」を説いている。真似というのは、ぶっちゃけ、人のベイジアンフィルターをインポートすることなのだ。ベイジアンフィルターは学習開始当初はかなりおバカであるが、真似というインポートを通す事で、自分で最初から鍛え上げるよりも早く「使える」ようになる公算が大きくなるのだ。
しかし、本書の最も良心的な部分は、最終章で著者がこうしたアプローチにも限界があるのだときちんと述べていることだ。確率的に合理的な選択を行っても、結果的に外れることはある。そして外れた場合、確率的思考は無力なのだ。
日本において、クロイツフェルトヤコブ病(CJD)に発症する確率は100万分の1であるが、発症してしまった人にはそのことは何の救いにもならない。幼児殺人の被害者は40人ほど。確率的思考では、それに備えを割くのは非合理だ。しかし被害者にそれを面と向かって言うほど我々、いや私は厚顔にはなれない。本書で一番感慨深かったのは、以下のこの言葉である。
筆者は、不確実性下の意思決定を考えるうえで、人生における「祈り」とか「覚悟」とかいったものを排除できないと思う。
これを「合理的統計主義の敗北」と切り捨てるのは簡単だ。しかし私はこうした「経験に裏打ちされた限界の認識」を「インポート」しただけでそう結論づける人を軽蔑せずにはいられない。それこそ世界知と生活知をたがえることだと思う。確率で切れないものは確かにある。だからこそ確率を尽くすべきなのだ。
その意味で、「『脳』整理法」はいささか「脳天気」に私は思えたのだ。特に「『脳』整理法」というもろインポーテッドなタイトルにそれを感じる。ちょっと手抜きがすぎませぬか、茂木先生。
とはいうものの、「確率がとりこぼしたもの」に対する無力感は、両書を読んでも消えるどころかますます深くなるばかりだ。おそらくそれとの対決が、「ポストモダン科学」の天王山となるような気がする。
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最終更新 : 2006-07-15 19:24:03 +0900
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