ほんの一粒の砂のような微細なものでもいいから私は伝えたい、それならできるかもしれない。一粒の砂のようなものを無限にあるうちから取り出して伝えたとしても、それはあなたの命を賭けるに値することがあるだろう。大事にして、些細な事柄に極まりなくどこまでもどこまでも入り込んでいったほうがいい。いまからでも遅くない。(p.14)
花がそこにある。花がそこにあるけれども、ふっといったらそこにはなかった。身近にあるのかもしれない。ここにあったからそこへいくというのは正気の沙汰だ。これじゃ、クレイジーになれないですよ。ふっといったら、花がいつの間にか、すうっといなくなってしまった。だけども私は花を見る。花はどこにあるのか。心のなかにあるのかもわからないけれど。自分のなかに、ハートのなかにね、花が入っているんですよ。頭のなかでは確実に一つのフォルムが、一つの型が出来上がっている。ところがクレイジーのときはそんなもんないですよ。いっても、なぜいったのかわからなったりする。クレイジーじゃないとだめですよ。忘れたころに、花がここにあった。何か知らないけど、ここに花があった。花と、さて何しているんだ。花と語り合ってるんだ。トーキングですよ、花と。トーキングしようと思って、すっといくと、いつの間にか花がなくなってしまった。とにかくクレイジーですよ、だからフリースタイルで。(p.22)
目がこうあるでしょう。そうするとあなたの魂が目を通してすうっと外側のほうに出かけていく。すると外側のほうから、何か鳥のようなものが飛んできて、魂の鳥のようなものが飛んでくる。そして魂のなかにすっと入ってきますか。そのために目が通りやすいようにしてありますか。目から鳥が入ってこようとしているときに、入ってこられるような目でやっていますか。いつも動作しながら、すっと入ってこられるように、すっとやらないとだめだ。魂の重要な出入りがあるようにさ。それによって自分の喜びが成立しているのか、悲しんでいるのか。どうなっているんだろう。鳥は出たり入ったりするときに、羽ばたいている。あなたの心が喜びに羽ばたいているんですか。悲しいですか、どうですか。刻々に変化している、その現実がね。目ってやつは大事にしてさ。目だけでダンスって言えるでしょう。目の世界があるんですよ。さっ、そういう目でちょっとやってみましょう。(p.25)
魂というのは常に動いている。分裂、拡散、増えていく。大きくなる。小さくなる。こうしてじっとしている。これは何か。耐えたってこともあるけれども、ひょっとして怠慢かもしれない。そこからいろいろ動くけれどもさ、動くけれどもそれがね、いったいソウルダンスなのかどうか。ただ頭で考えていつのまにかやっているのか、それとも魂の形としてやっているのか。どんな爪の端だって、ソウルですよ。だから大事にしてさ。あらゆる瞬間がソウルと関係あるんですよ。鉄のように、鋼鉄の物、これも一つのソウルですよ。思いがいくわけですよ。ソウルがないとダメですよ。じぁ、何か考えているの、といったとき何も考えてない、おそらく考えてない。考えてる姿勢だけでもさ、魂に見破られてしまう。顕微鏡で見ている。あれは何なのか。鬼だ。鬼、鬼の童子じゃないだろうか。やりやすいようなところばっかりじゃダメですよ。いかにもやりやすい部分、やりやすいイージーはだめですよ。パワーッ、パワフルでなくちゃ、こういうのがフリーです。(p.37)
人生を太く短く、細く短く、太く長く、細く長く、いろいろある。しかし細いとか太いとか、それはあなたが生きているなかでの細い太いであって、その細いも太いも生きているなかでの細い太いで、細いものが細く、太いものが太くあることによって、人間が生きていることが証明される。どれほどその細くにしろ太くにしろ、どれほど大切に大事に生きているかどうか。どんな些細な繋がりであっても、いや、これは繋がりだからどうってことないんだ。いやそんなことはない。どんな些細な繋がりであろうと、たくましい断絶であろうと、それはいきいきとしてなくちゃならない。動くことによってあなたのエネルギーとの関係のなか、ただ細く、ただ太く、という表現じゃない。細く生きる、太く生きる、それによってあなたの内部に生きる力が刻々に蓄積されなければならないんだ。だからそれが爪先であろうと、小指であろうと、何であろうと、刻々に。(p.40)
祭りは型にはまったものではなくして、むしろ型からはずれたところに祭りの意義がある。音に合わせるよりも、音からはずれていくところに音が生かされる。音からはずれて、ひょっとして私はバランスを失って倒れるかもしれない。そんなぎりぎりのところで音からはずれて、型からはずれて。俺が最初に祭りという言葉に接したのは終戦直後、神田でランボーの『地獄の季節』の、そのなかのたった一つの言葉「祭り」に、それが魂にこびりついていまだに頭から離れない。本道からはずれた、当然こうあるべきだというところからはずれていなければ、とても踊りになりはしない。いや、みんなこころしてやるように。これは私が自分自身に、いまさかんに言い聞かせているのだ。おまえが今度やるときは、こころしてそうあるべきだ。本道からはずれていなければならない。(p.41)
目を開いて、そして見ない。手を出しても反応がない。そういう目のほうがいい。これもある、あれもある、さあどうしたらいいかじゃなくて、見ない目。無心になる。じゃ勉強しなかったのか。勉強して勉強して勉強して全部捨ててしまった。捨ててしまったんではないんだ。それが自分を支えてくれる。私はそういう踊りを見るとね、あんまり派手に動かなくたって、じっと立っているだけでも、ちょっと動いただけでも、ああ、いいなと思う。(p.45)
舞踏とは何か。土方さんが、「舞踏とは命がけで突っ立っている死体である」、こう言った。これはどうも技術を超えた世界のように思える。想像力という問題だけを考えても、自分が想像力を作ったんじゃなくて、天地の始めから現在にいたるまで、先人が死んで、魂に刻み込んで、外側から、宇宙の側から刻み込んで、そういう長い億単位という年月のなかで、想像力というものが、積み重ねのなかで生まれた。たくさんの積み重ね。そのなかの自分。そのなかでは、テクニックなんてのは簡単に取り上げられるものじゃないと思う。技術とは何か、と言ったときに、困難のなかにある、それが技術だ。頭の中でやると、だんだんはっきりするのが技術ですよ、普通の常識からいえば。それがますますやるほど困難が入り込んでしまってさ、にっちもさっちもいかなくなる、というのが技術だと思う。私にとってね、技術的側面なんて書こうと思っても書けない。書けないのが技術だと思う。(p.58)
瞬間、瞬間の世界の形成に、あなたの肉体が参加できるように。どこかに連れていかれて肉体がいつのまにかその世界へ参入するかのように。それが甘かろうと辛かろうと、そんなことは関係ないことだ。甘くたっていいでしょう。辛くたっていいでしょう。渋くたっていいでしょう。味であろうと、それが香りであろうと色彩であろうと、それらがあなたにどういう関係があるのか。(p.87)
箸を持って御飯を食べるときに、その箸が宇宙の果てまで伸びていって、あなたが生きている証しのような、喜びのような、悲しみそのもののような箸となって、あなたが食事をするときに何気なくもつ箸が、そんな箸であってほしい。今は気づかなくてもいいが、千年たっても万年たっても気がつかないとすれば、その箸の持ち方はだめだ。(p.133)
漂う勇気が、死と生が背中合わせになって。言葉でなくて、あなたが発する輝きだ。宇宙全域とそのかかわりのなかで、あなたは石蹴り遊びをしているんだ。(p.173)
さなぎから蝶に形が変わった。俺にはわからないエネルギーの燃焼があったことは間違いない。「これ以上、私はできません」。しかしその次があるんだ。そうすれば、あなたはさなぎから蝶に変身できる。そこが大事なところですよ。蝶に変身した羽はきわめて未成熟なものだった。空気に触れた、その瞬間に。しかし初めは、飛べなかったはずだ。その短い時間は、どんな時間だったんだ。命がどのように働いたんだ。意識が働いたのか。そうじゃないだろう。俺にはとても説明できない。しかし蝶が飛ぶまでに至るその短い時間が、踊りそのものだ。ある意味で超時間だ。どんな細工をしても、名人がいてもとても作れない。これはいったい何だろうか。(p.175)
おまえの踊りがいま認められなくたって、千年万年経て誰かひとりでもいいから、認めることがあるとすれば、それは成立する。しかし、永久に誰とも関わりのない踊りはだめだ。(p.182)
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