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スケートボーディング、空間、都市―身体と建築

イアン ボーデン
新曜社
ISBN: 4788510146  紀伊國屋, Amazon, WebCat
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myta :

初期のスケートボーディングは、逃避の一形態−−サーフィンがそう解釈されるかもしれないように−−というよりも、都市の再定位であった。サーフィンに関連するムーヴによって、スケーターたちは身体、ボード、地形を結合しなおし、一つの活動(サーフィン)をまねながら同時に、もう一つのもの(スケートボーディング)を作りはじめていた。郊外のモダニスト空間を見つけ出し、馴染んで、別種の空間として、コンクリートの波として新たに考え直した。[……]それは、資本主義のなかで欠乏しつつあったもの−−第一の自然、空気、水、大地、光−−を、第二の自然から生み出そうとする試みだった。(p.42-)


 スケートのムーヴは鏡に似て、主体の統一を形成するのではない。つまりルフェーヴルが想起させる「内容のない形態、形態のない内容はない」ということの身体版である。スケートボードのムーヴは、写真というイメージ−かつ−現実の媒体を通じた自己の投射である。それは、純粋な活動でも画像でもなく、生きられる画像なのだ。スケートボードの滑走はコミュニケーションであると同時に、展開でもあり、オンライン・マガジンの『インフラックス』や『スケートボーダー』誌の写真のようなことを、実際に生で上演することでもある。スケーターがムーヴを作るとき、スケーターたちは自らの身体によって写真やビデオクリップを再生すると同時に、それを再び生き、作り直し、そして−−究極的には−−画像とムーヴと自らを社会へ、血の通う生きている存在にする。
 こうして明らかにされたように、スケートボーディングは、観客性と画像に退化するところは本来どこにもなく、[スケートの雑誌の]読者と[スケート]共同体【コミュニティ】はこれらの過程を通して互いに結びつけられるという考えがしっくりする。ここには、空間的そして時間的な興味深い結果がある。空間的には、スケーターたちは自分の身体の直接的な肉体性と、世界的規模で広がるスケート共同体とのあいだを往復し続ける。(p.161)


スケートボーダーたちは、どんな建物や街の機能、象徴的【シンボリック】な存在感にもほとんど無関心だ。

サンディエゴはまったくくだらない。LAやサンフランシスコ、サンノゼ、フェニックス、シンシナティ、タルサ、イビール、ニューヨーク、ストックホルム、ベルリン、キャンベラ、インディペンデンス、ミズーリもそうだ。(自分の町の名前をここに入れる)−−(わかるかい?)
 あらゆる建築がくだらない。すべてがスケーターたちが単純に「スケートロポリス」として見る、一般的【ジェネリック】な都市性に関係しているからだ。(p.267)


 街は物ではないが、都市化の過程が明確な形態をとったものだ。街はアイディアや文化、記憶に満ちていて、貨幣、情報、イデオロギーが流れ、絶え間なく都市的なものを再生産し続ける動的な構成をもつ。街を物体の集積と見なすことは、結果として、その本当の特質を見損なうことになる。そして、これがまさにスケートボーディングが見損なっている失敗であり、それは都市的なるものを形づくる過程の分析を何もしない。そのかわり、スケートボーディングにおける五感で認知する手順は、街の物体としての本質に全面的に依存しており、街の表面−−水平、垂直、斜め、湾曲−−を[ボードとともに]操縦するための物的な地面として取り扱う。
 しかし、その失敗のなかには物体[/対象【オブジェクト】]−物としての街への優れた批判がある。資本主義は作品としての街−−意図的ではない集団的な芸術作品、豊かな意味をもちながらも日常生活に組み込まれている−−を、「繰り返される空間」、「繰り返される身振り」、交換され再生産される規格品、貨幣によってのみ区別されるあらゆる種類の規格品へと置き換えてきた。しかし、スケートボーディングは繰り返される物の集積としての街が提示するものを、受け入れると同時に否定する。まず、建築の五感で認知できる特質に対して、つまり、スケートボーダーがアクセスできるものとしての水平面、表面、テクスチュアという構成に対してのみ純粋に焦点を合わせることで、スケートボーダーたちはこの提示を受け入れる。

 あたりを見まわせ。スケート向けの形にあふれる世界を見ろ……スケートするために建築家がそこに残してくれた形を。
 ここでは、街と建築は疑うことなく物である。その一方で、変化が作り出されるのは、まさに、この五感で認知できるものに焦点をあわせることによってである。
複雑にからんだ無数の問いのなかで、ストリート戦略家は自分自身の答えにならなければならない。路地、縁石、ストリート、プール、ランプ、駐車場、丘、バンク、その他の思いつく限りの形は、個人が向上するための舞台だ。それをもって何をどのようにするか、それは自分自身の問題だ。
 スケートボーダーたちが壁に沿って、消火栓を越えて、または建物にのぼって走るとき、彼らはそこの機能やイデオロギー的な内容に対しては完全に無関心だ。そのため、一つの建物としてのその存在や、一貫した都市としての実体を作り出すため論理的に配置された空間や物質としての構成体【コンボジション】に、もやは関心すらもたない。建物の特定のエレメント(レッジ、壁、バンク、手摺りなど)にだけ焦点を合わせることで、スケートボーダーたちは、三次元的な一まとまりとしての物、一つの全体性としてのみ理解されるような建築の存在を否定し、そのかわりに、浮遊し、切り離され、それぞれが分離した物的なエレメントの集まりとして建築を扱う。建築家が建物「使用者」を考慮しているといいながら、空間やデザインより身体を下位に置き、身体を数量として扱っていることが暗示されるところでは、スケーターのパフォーマティヴな身体は「前もって決められた周辺の状況に取り組む能力、欲しいものを取り出し、残りを捨てる能力」をもち、それによって建築を自分の尺度で再生産し、表面、テクスチュア、ミクロ的物体の連なりとして再編集する。(p.276-)


運動【ムーヴメント】とは腐った現実のなかでの生命力のことだ。(p.282)


スケートボーダーたちの表現としての地図は、絶え間ない街の追体験−−「いつでも新しいラインと可能性を捜し求めている開かれた心」−−を通して、常に状況づけられている。スケーターたちが試みるのは、街を「見る」ことでも、全体的なものとして把握することでもなく、街を表現であると同時に[身体的/物的な]実体のあるもの【フィジカリティ】として生きることだ。

壁はただの壁じゃないし、バンクはただのバンクじゃない、縁石【カーブ】もただの縁石じゃない、などなど……ブロックと階段の配置にしたがって街を頭のなかにマッピングして、自分の必要と想像力にあわせて、周りの環境の意味をひん曲げる。スケートボーダーだってことは素敵なことじゃないか?(p.292)


スケートボーディングはコンクリートジャングルへの適応であり、発展するアメリカの風景のためのスポーツだ……ストリート・スタイルは、あたりにある醜い都市のクソを、楽しみの原料に変えようとすることなんだ。(p.320)


木と金属とプラスチックでできているスケートボードは、費用が100ポンドくらいで、脚力で走り、ちょっとした石や金属に欠け目や引っかき傷を作る。車には大金がかかり、有毒のクソみたいなので走り、空気や水を汚し、街を「スモッグ」で充たし、毎年数百数千もの人を死なせている。そうだろう? そのくせ、そうした車は全部OKなのに、スケートボーダーたちは邪悪で、破壊行為の表れで、やめさせるべき危険な脅威とされている。(p.330)


スケートボーディングを犯罪とすることができるのは一番狭量な法律によってのみだ。それは主として、スケートボーディングが時間と空間の流用−−支配ではない−−を目的としているためであり、したがって真の違法行為であるとたやすく言うことはできないからだ。それにもかかわらず、スケーターたちは所有権にほとんど関心を示さないので、その資本主義の原理に暗黙のうちに反対していることになる。「すべての空間は公共空間だ」。それゆれ、スケートボーディングは零度の建築の原因にも条件にも立ち向かってはいないが、零度の建築がもつ暗黙の論理と、象徴的な抑圧を単に否定している。(p.331)

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最終更新 : 2009-03-11 21:30:16 +0900
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