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ジェンダー・トラブル―フェミニズムとアイデンティティの攪乱

ジュディス バトラー
青土社
ISBN: 4791757033  紀伊國屋, Amazon, WebCat
カテゴリ フェミニズム
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myta :

 セックスそのものがジェンダー化されたカテゴリーだとすれば、ジェンダーをセックスの文化的解釈と定義することは無意味となるだろう。ジェンダーは、生得のセックス(法的概念)に文化が意味を書き込んだものだと考えるべきではない。ジェンダーは、それによってセックスそのものが確立されていく生産装置のことである。そうなると、セックスが自然に対応するように、ジェンダーが文化に対応するということにはならない。ジェンダーは、言説/文化の手段でもあり、その手段をつうじて、「性別化された自然」や「自然なセックス」が、文化のまえに存在する「前−言説的なもの」−−つまり、文化がそのうえで作動する政治的に中立的な表面−−として生産され、確立されていくのである。「セックス」が本来的に社会構築されたものでないとみなす考え方は[……]セックスの内的安定性やその二元的な枠組みを打ちたてるのにもっとも効果的な方法が、じつは、セックスの二元体を言説以前の領域に追いやることだということである。セックスを前−言説的なものとして生産することは、ジェンダーと呼ばれる文化構築された装置がおこなう結果なのだと理解すべきである。したがって、たとえジェンダーを再定義したとしても、それが言説に先行するセックスという概念を結果として生み出しておきながら言説のこの生産作用を隠蔽する権力関係を包み込むようなジェンダー理解となるならば、ジェンダーを再定義する必要などどこにあるだろうか。(p.29)

 これまで指摘しようとしたことは、アイデンティティのカテゴリーは、たいていの場合フェミニズムの政治の基盤とみなされてきたが−−つまり、フェミニズムをアイデンティティの政治として起動させるために必要なものと考えられてきたが−−同時にそれは、フェミニズムが開くつもりの文化の可能性を、まえもって制限したり限定するためにはたらくものでもあるということだ。文化的に理解可能な「セックス」を作りだす暗黙の制約は、自然化された基盤などではなく、自己産出的な政治構造だと理解されなければならない。皮肉なことに、アイデンティティを結果−−生産され、産出されるもの−−とみなす再概念化は、アイデンティティのカテゴリーを基盤的で固定的と捉える位置によって巧妙に排除されていた「行為体」の可能性を、開いていくのである。アイデンティティが結果だということは、それが宿命的に決定されているとか、完全に人工的で任意のものだという意味ではない。構築されたものというアイデンティティの位置を、この二つの矛盾した見方でまちがって解釈してしまうと、文化構築についてのフェミニズムの言説は、自由意志と決定論という不必要な二分法の罠のなかにまたもや陥ってしまう。構築は行為体と対立しているわけではない。構築は行為体の必須の場面であり、行為体が分節化され、文化的に理解可能となる次元なのである。フェミニズムがしなければならない批判的作業は、構築されたアイデンティティの外側にフェミニズムの視点を打ち立てることではない。そんなことをすれば、フェミニズム自身の文化的位置を否定し、ひいては包括的な主体として−−フェミニズムが批判すべき帝国主義的な戦略を配備する位置として−−邁進する認識論のモデルを構築してしまうことになる。そうではなくて批判的な作業というのは、まさにそういった構築によって可能になっている攪乱的な反復の戦略をとること−−つまり、アイデンティティを構築するものでありながら、またそれゆえにその反復実践に異を唱える内在的な可能性を提示するような反復実践に、みずから参与し、それによって局所的介入をおこなう可能性を支持していくこと−−なのである。(p.257-)

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最終更新 : 2004-08-03 01:27:08 +0900
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