http://d.hatena.ne.jp/harunoriyukamu/20050705#p2
http://d.hatena.ne.jp/harunoriyukamu/20040128#p1
ベルクソンの提示した〈純粋持続〉概念を時間の純粋形態ではなく、むしろ(時間以前のものである)自由の純粋形態であると喝破し、さらにカントが提示した超越論的自由の実在論へと接続する。
第五章〈時間の限界としての現在〉から一部引用。
>> 私が夢中で試験問題を解いているとき、油絵を描くことに没頭している時、電車に乗り遅れまいと必死に走っている時、私は純粋持続のうちにあり、私は自由なのだ。いや、このときじつは「私」も登場してこない。「われを忘れている」のである。ただ、端的にある体験が開かれているだけであり、いわば私は世界とぴったり一致している。とはいえ、それは夢でも幻覚でもなく妄想でもない。明晰な体験である。〔中略〕
この時私は〈いま〉根源的に「自由である」のではない。純粋に自由に行為しつつある場合、私は時間のうちにいないのだ。私は「時間以前のもの=X」にかかわっている。いや、さらに正確に言えば、そこに生じている心の状態も「私以前の状態」なのである。そこには「時間以前のもの=私以前のもの」としてのXが登場しているだけなのである。<<
中島が説く「時間以前のもの=私以前のもの=X」は、エックハルト・トールが説く「大いなる存在」あるいは「ほんとうの自分」に比すことができる量子的概念と言える。
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