今現在、SF作家の最高峰にいる奇才グレッグ・イーガンの新刊を他のSFファンと一緒に手にすることができるというのは幸せなことです。名前は聞いていたんですけど、一昨年に「万物理論」を読んで以来、初めてイーガンの本を新刊として手にすることが出来ました。うれしいです。
さて、この本は短編集で、邦訳されたイーガンの短編集としては3冊目になります。ところが、私は今までイーガンは長編しか読んだことがありませんでした。ネットの方々では「イーガンは面白いんだけど、長編は読むのが大変過ぎて、短編集しか読んでない」なんて意見をちらほらと見かけます。確かに、長編を読んでると、「こ、ここに短編が何本書けるだけのネタが・・・・」と圧倒されちゃうわけで、私も短編を読むのを楽しみにしてました。
ところが、意外なことに私にとっては短編の方が読みづらかったんです。長編だと、話の世界観や前提となるテクノロジーなどを一度飲み込んでしまえば、めくるめくSF的アイデア・ガジェットのオンパレードを楽しむことが出来ます。でも、短編は一編一編ごとにその前提の世界に馴染むのに時間がかかり、また、長編のような全体を貫く縦軸のストーリーがないためにどうしても先を読もうとするモチベーションが弱まってしまうのです。
だからといって、短編が面白くないかというとそんなことはないですけどね。「ディアスポラ」が全体を大きく見れば、外宇宙へ人類以外の高次元知的生命体を求めて旅をするという冒険譚だったので、それと比較してしまうと物語を読んでいるときのドキワク感が薄いことは確かです。ですが、その分、一つ一つのアイデアを純粋に味わえるとも言えます。
イーガンの短編を読んでいるとSFの純粋さについても考えてしまいます。よくSFでは、「もしも、○○だったら」という仮定をして、そこから科学的な推量をしてドキドキワクワクの世界を作り上げ、その中での物語を描くという手法が取られます。例えば、「光速を超える速度で移動出来たら」とか、「撒くと電波が遮られる粒子があったら」とかですね。基本的にどんな仮定を置いたとしても、そこから科学を使って組み立てれば一応、SFの範疇かな。「エルフや鬼の住む異世界と地球がつながったら」は、さすがにそのあとどれだけSF的ガジェットを積み上げてもちょっと厳しかったけど(ええ。「ティンカー」のことです^^;;)。
イーガンの古くて新しいところは、この「仮定」も最新の科学のセンス・オブ・ワンダーの中から取りだしてくるところ。量子論の先っぽや脳科学の最先端の知見は、我々の生活となかなか結びつきにくいワケで、昔は、「もしタイムマシンがあったら」とか「恐竜が滅びずに生き残っていたら」なんてのがそのままSFのネタになったわけですが、それに比べれば今、そういう書き方をするのはなかなか難しい。そういう時代に、「感情は所詮、脳内の化学物質のやりとりに過ぎないのだから、それをナノマシンで制御できるようになったら」なんてど真ん中の「仮定」を持ってきて、それを描ききってしまうところが、イーガンが高く評価されているところなんでしょう。
この短編集の「仮定」、つまり「ネタ」の部分を並べてみます
- 「行動原理」「真心」「決断者」
「感情を制御するインプラントが存在したら」
このネタで全然違う3本が書けてしまうってのも凄い
- 「ルミナス」
「数学が内部で無矛盾でなかったとしたら」
この発想から、なぜ人類の存亡が描かれるのか、完全に脱帽(笑)
- 「ふたりの距離」
「心が自由に身体を取り替えることができるなら」
これは割と想像しやすいから楽しく読めるけど、オチがそこにいくとは・・・
- 「オラクル」「ひとりっ子」
「この世が量子論的な不確定性が重なった多世界宇宙で、刻々と無数の分岐を繰り返しているのなら、それを止めることは出来るか」
この二編はある程度の長さがあり、このネタだけじゃなくて複数のネタが入ってます。
いやー、このネタは正直、ドラマまで持っていくのが大変だと思う(笑)
こんな風に並べてみるとちょっとは興味をそそられる人もいるでしょ?
SFにドラマやロマンだけを求めてるとちょっとキツイけど、「SFに一番必要なのは、Sence of Wonderだ!」と思ってる人達に、絶大な支持を集めてるのもわかる気がしません?
・・・いや、私は誰を説得しはじめているのか(笑)
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