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書きあぐねている人のための小説入門
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ジェンダー/セクシュアリティ (思考のフロンティア)
ジェンダー/セクシュアリティ (思考のフロンティア)
著者: 田崎 英明
出版社: 岩波書店
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コメント: <p> たとえば、こういう例を考えてみよう。「私はコップで水を飲む(飲んだ)」と語ることと、実際に(もう一度)コップで水を飲むこととは何が違っているのか。私たちはコップをつかって水を飲む。何かをつかみ、それを用いて、何かをする。それでは、ことばもそうなのだろうか。私たちはことばをつかって何かをするのか。たしかに、何かをする。ことばをつかって命令したり、唆したり、ドキドキさせたりする。言語理論のいうところの遂行的発話である。それでは、言語を使用するということは、コップを使用するということと変わらないような何かなのだろうか。それとも、言語にしかできない何かが存在するのだろうか。使用されたかぎりでの言語である言説は、装置の存在を表現すると私たちはいった。だが、言語を使用しているとき、少なくとも何かを音声によって語っているとき、私たちは、同時に食べることはできない。あるいは、それが口であっても手であってもいいのだが、言語は、それが関わる器官をある意味で独占してしまい、その器官を動物的生から引き剥がしてしまうのである。もちろん、このような引き剥がし、器官的なものから非器官的なものへの移行は、一方では、言説におけるポジション(とその位置関係)へと、生を引き渡す基礎となるものではあるだろう。<br>  しかし、それだけだろうか。私としては、言語による非器官的なものへの移行に、「自己」との関わりを見ておきたいのだ。つまり、言説および装置は、ポジション(それは非器官的であるが、基本的にはすべて「私」である)へと器官としての身体を配分する。ポジションの集合と器官的身体の集合との対応をつけるのが、言説であるといえる。それに対して、「自己」はポジションではないし、また、それは内在的生であるのだから、当然、器官的な身体でもない。言語を装置とは別の平面に展開できないものだろうか。可視性としての器官的身体からも、諸々の「私」を配分する言説からも逸れていって、動物的生のただなかで内在的生を実現するような、そんな、言説的に振舞わない言語のあり方。それは、言語の休暇などというものではなくて、むしろ、言語のゼネストとでもいった方がいいものかもしれない。たとえば、言語を、誰もけっして、「私」のものとは思えないように使うこと。誰が読んでも、「これは私の言語ではない」と呟くことしかできないように用いること。まずは、言語に対する「私」の支配権(サディズムの基本はこれである)を放棄すること。<br>  このような「私」から「自己」への移行ないし逸脱に、セクシュアリティはどう関わってくるのだろうか。(p.26-)</p> <p> もしも、私たちの体細胞のレヴェルで細菌的セックスが行われたら、いったいどうなるのか。それを描いたのが、デヴィッド・クローネンバーグが監督した映画『ザ・フライ』(1986年)である。そもそもは1958年のカート・ニューマン監督のSF映画『蠅男の恐怖』(原題はどちらもThe Fly)のリメイクである。<br> [……]天才科学者は、自分自身を実験台にして転送を試みることになる。その結果が、転送機に紛れ込んでいた蠅との遺伝子レヴェルでの融合である。転送の後しばらくは、彼は異常な能力と精力を示す。彼はいう。自分は肉fleshに目覚めたのだ、と。肉とは何のことだろう。それと身体bodyとは違うのだろうか。もちろん、「肉」といったときには、そこに「肉欲」の響きもあるに違いない。<br>  だが、それだけではあるまい。肉は、人間が蠅になっていくときに、より正確にいえば、人間でも蠅でもない蠅人間(転送機のコンピュータは適切にも、彼のことを「蠅人間」とは呼ばず、「ブライトン蠅」と固有名をつけて呼ぶ)になっていく過程で露出していくものではないか。人間の身体を構成する諸器官がかたちを失い、蠅のそれに置き換わっていくなかで実現される何かである。種への帰属から個体が逸脱していく、いわば、個体化の暴走において垣間見られるもの、それが肉である。この科学者が肉に目覚め、性欲に目覚めるのではない。細菌的セックスによって、肉が、彼において目覚めたのである。「彼」はこのプロセスの主語ではない。それは場所を、トポスを示す。そこにおいて肉が目覚めること。純粋な個体化。<br>  このように純粋な、暴走する個体化においては、時間性は歴史化されない。歴史とは、地層化され、ある閾をもって区切られた形成物の積み重なりであるが、そのような歴史性とは違う、アナクロニックな時間性こそが、個体(化)の時間なのである。蠅も人間も、種として見れば地層であり、歴史化されている。しかし、個体は、およそすべて個体というものは、絶対的記憶への参与としてのみ考えられる。それは地層であるよりも、その褶曲である。細菌はセックスにおいて非歴史的な記憶を自己へと折りたたむのである。(p.57-)</p> <p> 自己が構成する共同性を私は共同体と呼びたい。それは、社会的なものとは区別されるだろう。共同体は、新しくやって来た者(パゾリーニの『テオレマ』でのテレンス・スタンプを思い出そう)によって誘惑され、自分のこれまで来た道を踏みはずす者たちによって構成されている。それに対して、社会は、新しく来た者に命令する。黙れ、私のいう通りにしろ。私はお前の手本である。私を模倣せよ。社会はそこに新しくやって来た者からは学ばない。反対に、新参者に教えようとする。この意味で社会は閉じている。ところが、共同体は、新しい者に誘惑され、学ぶのである。つまり、共同体はつねに開かれているのである。共同体の方が個体のもとに到来するのだ。<br>  ルネ・シェレール(彼の書くものはどれもすばらしい)は『歓待のユートピア−−歓待神[ゼウス]礼賛』(安川慶治訳、現代企画室、1996年)で、ふつうは極めて評判が悪い、フッサールの間主観性の理論(他我は自我によって構成されたものであるとする)を擁護している。シェレールの論点は大切である。彼もいうように、最近私たちは「他者(異なる存在)と出会う」ということばかり聞かされつづけている。だが、そういった議論は「同じもの」同志ならうまくいくことを安易に前提としてはいないだろうか。けれども、文学や映画における分身のテーマの扱いを見れば分かるように、本当に同じもの同士が出会うと悲劇的な結末を迎えてしまう。同じもの、対等な者のあいだの愛(ベルサーニの『ホモズ』のひとつのテーマ)はいかにして可能なのか。このことはけっして自明ではない。同じものの共同体としての自己たちの共同体はいかにして可能なのか。この問は開かれたままである。<br>  共同体は開かれている。したがって、その境界を区切ることはできない。ということは、存在するのはただひとつの共同体でしかない。それは、「人類」である。あるいは、こういうべきかもしれない。人類というのは、誘惑されて社会から道を踏み誤るその瞬間に形成される存在である。晩年のフーコーのセクシュアリティ論が開く政治的地平は、このような人類への参加の呼びかけ、誘惑をはらんでいる。私はこの誘惑に応じるのだろうか。そして、あなたはどうするのだろう。(p.94-)</p> <p>「知ること」には、それぞれ対応する器官がある。だが、「考えること」(知性の振舞い)には固有の器官がない。(p.112)</p>
関連本棚: neanias myta イチミズ
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スケートボーディング、空間、都市―身体と建築
スケートボーディング、空間、都市―身体と建築
著者: イアン ボーデン
出版社: 新曜社
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コメント: <p>初期のスケートボーディングは、逃避の一形態−−サーフィンがそう解釈されるかもしれないように−−というよりも、都市の再定位であった。サーフィンに関連するムーヴによって、スケーターたちは身体、ボード、地形を結合しなおし、一つの活動(サーフィン)をまねながら同時に、もう一つのもの(スケートボーディング)を作りはじめていた。郊外のモダニスト空間を見つけ出し、馴染んで、別種の空間として、コンクリートの波として新たに考え直した。[……]それは、資本主義のなかで欠乏しつつあったもの−−第一の自然、空気、水、大地、光−−を、第二の自然から生み出そうとする試みだった。(p.42-)</p><br> <p> スケートのムーヴは鏡に似て、主体の統一を<b>形成</b>するのではない。つまりルフェーヴルが想起させる「内容のない形態、形態のない内容はない」ということの身体版である。スケートボードのムーヴは、写真というイメージ−かつ−現実の媒体を通じた自己の投射である。それは、純粋な活動でも画像でもなく、生きられる画像なのだ。スケートボードの滑走はコミュニケーションであると同時に、展開でもあり、オンライン・マガジンの『インフラックス』や『スケートボーダー』誌の写真のようなことを、実際に生で上演することでもある。スケーターがムーヴを作るとき、スケーターたちは自らの身体によって写真やビデオクリップを再生すると同時に、それを再び生き、作り直し、そして−−究極的には−−画像とムーヴと自らを社会へ、血の通う生きている存在にする。<br>  こうして明らかにされたように、スケートボーディングは、観客性と画像に退化するところは本来どこにもなく、[スケートの雑誌の]読者と[スケート]共同体【コミュニティ】はこれらの過程を通して互いに結びつけられるという考えがしっくりする。ここには、空間的そして時間的な興味深い結果がある。空間的には、スケーターたちは自分の身体の直接的な肉体性と、世界的規模で広がるスケート共同体とのあいだを往復し続ける。(p.161)</p><br> <p>スケートボーダーたちは、どんな建物や街の機能、象徴的【シンボリック】な存在感にもほとんど無関心だ。<blockquote>サンディエゴはまったくくだらない。LAやサンフランシスコ、サンノゼ、フェニックス、シンシナティ、タルサ、イビール、ニューヨーク、ストックホルム、ベルリン、キャンベラ、インディペンデンス、ミズーリもそうだ。(自分の町の名前をここに入れる)−−(わかるかい?)</blockquote>  あらゆる建築がくだらない。すべてがスケーターたちが単純に「スケートロポリス」として見る、一般的【ジェネリック】な都市性に関係しているからだ。(p.267)</p><br> <p> 街は物ではないが、都市化の過程が明確な形態をとったものだ。街はアイディアや文化、記憶に満ちていて、貨幣、情報、イデオロギーが流れ、絶え間なく都市的なものを<b>再生産</b>し続ける動的な構成をもつ。街を物体の集積と見なすことは、結果として、その本当の特質を見損なうことになる。そして、これがまさにスケートボーディングが見損なっている失敗であり、それは都市的なるものを形づくる過程の分析を何もしない。そのかわり、スケートボーディングにおける五感で認知する手順は、街の物体としての本質に全面的に依存しており、街の表面−−水平、垂直、斜め、湾曲−−を[ボードとともに]操縦するための物的な地面として取り扱う。<br>  しかし、その失敗のなかには物体[/対象【オブジェクト】]−物としての街への優れた批判がある。資本主義は作品としての街−−意図的ではない集団的な芸術作品、豊かな意味をもちながらも日常生活に組み込まれている−−を、「繰り返される空間」、「繰り返される身振り」、交換され再生産される規格品、貨幣によってのみ区別されるあらゆる種類の規格品へと置き換えてきた。しかし、スケートボーディングは繰り返される物の集積としての街が提示するものを、受け入れると同時に否定する。まず、建築の五感で認知できる特質に対して、つまり、スケートボーダーがアクセスできるものとしての水平面、表面、テクスチュアという構成に対してのみ純粋に焦点を合わせることで、スケートボーダーたちはこの提示を受け入れる。 <blockquote> あたりを見まわせ。スケート向けの形にあふれる世界を見ろ……スケートするために建築家がそこに残してくれた形を。</blockquote> ここでは、街と建築は疑うことなく物である。その一方で、変化が作り出されるのは、まさに、この五感で認知できるものに焦点をあわせることによってである。 <blockquote>複雑にからんだ無数の問いのなかで、ストリート戦略家は自分自身の答えにならなければならない。路地、縁石、ストリート、プール、ランプ、駐車場、丘、バンク、その他の思いつく限りの形は、個人が向上するための舞台だ。それをもって何をどのようにするか、それは自分自身の問題だ。</blockquote>  スケートボーダーたちが壁に沿って、消火栓を越えて、または建物にのぼって走るとき、彼らはそこの機能やイデオロギー的な内容に対しては完全に無関心だ。そのため、一つの<b>建物</b>としてのその存在や、一貫した都市としての実体を作り出すため論理的に配置された空間や物質としての構成体【コンボジション】に、もやは関心すらもたない。建物の特定のエレメント(レッジ、壁、バンク、手摺りなど)にだけ焦点を合わせることで、スケートボーダーたちは、三次元的な一まとまりとしての物、一つの全体性としてのみ理解されるような建築の存在を否定し、そのかわりに、浮遊し、切り離され、それぞれが分離した物的なエレメントの集まりとして建築を扱う。建築家が建物「使用者」を考慮しているといいながら、空間やデザインより身体を下位に置き、身体を数量として扱っていることが暗示されるところでは、スケーターのパフォーマティヴな身体は「前もって決められた周辺の状況に取り組む能力、欲しいものを取り出し、残りを捨てる能力」をもち、それによって建築を自分の尺度で再生産し、表面、テクスチュア、ミクロ的物体の連なりとして再編集する。(p.276-)</p><br> <p><blockquote>運動【ムーヴメント】とは腐った現実のなかでの生命力のことだ。(p.282)</blockquote></p><br> <p>スケートボーダーたちの表現としての地図は、絶え間ない街の追体験−−「いつでも新しいラインと可能性を捜し求めている開かれた心」−−を通して、常に<b>状況づけられて</b>いる。スケーターたちが試みるのは、街を「見る」ことでも、全体的なものとして把握することでもなく、街を表現であると同時に[身体的/物的な]実体のあるもの【フィジカリティ】として生きることだ。 <blockquote>壁はただの壁じゃないし、バンクはただのバンクじゃない、縁石【カーブ】もただの縁石じゃない、などなど……ブロックと階段の配置にしたがって街を頭のなかにマッピングして、自分の必要と想像力にあわせて、周りの環境の意味をひん曲げる。スケートボーダーだってことは素敵なことじゃないか?(p.292)</blockquote></p><br> <p><blockquote>スケートボーディングはコンクリートジャングルへの適応であり、発展するアメリカの風景のためのスポーツだ……ストリート・スタイルは、あたりにある醜い都市のクソを、楽しみの原料に変えようとすることなんだ。(p.320)</blockquote></p><br> <p><blockquote>木と金属とプラスチックでできているスケートボードは、費用が100ポンドくらいで、脚力で走り、ちょっとした石や金属に欠け目や引っかき傷を作る。車には大金がかかり、有毒のクソみたいなので走り、空気や水を汚し、街を「スモッグ」で充たし、毎年数百数千もの人を死なせている。そうだろう? そのくせ、そうした車は全部OKなのに、スケートボーダーたちは邪悪で、破壊行為の表れで、<b>やめさせるべき</b>危険な脅威とされている。(p.330)</blockquote></p><br> <p>スケートボーディングを犯罪とすることができるのは一番狭量な法律によってのみだ。それは主として、スケートボーディングが時間と空間の流用−−支配ではない−−を目的としているためであり、したがって真の違法行為であるとたやすく言うことはできないからだ。それにもかかわらず、スケーターたちは所有権にほとんど関心を示さないので、その資本主義の原理に<b>暗黙のうちに</b>反対していることになる。「すべての空間は公共空間だ」。それゆれ、スケートボーディングは零度の建築の<b>原因</b>にも<b>条件</b>にも立ち向かってはいないが、零度の建築がもつ暗黙の論理と、<b>象徴的な</b>抑圧を単に否定している。(p.331)</p>
関連本棚: myta rokaz nakanaka ma
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大野一雄―稽古の言葉
大野一雄―稽古の言葉
著者: 大野 一雄
出版社: フィルムアート社
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コメント: <p> ほんの一粒の砂のような微細なものでもいいから私は伝えたい、それならできるかもしれない。一粒の砂のようなものを無限にあるうちから取り出して伝えたとしても、それはあなたの命を賭けるに値することがあるだろう。大事にして、些細な事柄に極まりなくどこまでもどこまでも入り込んでいったほうがいい。いまからでも遅くない。(p.14)</p> <p> 花がそこにある。花がそこにあるけれども、ふっといったらそこにはなかった。身近にあるのかもしれない。ここにあったからそこへいくというのは正気の沙汰だ。これじゃ、クレイジーになれないですよ。ふっといったら、花がいつの間にか、すうっといなくなってしまった。だけども私は花を見る。花はどこにあるのか。心のなかにあるのかもわからないけれど。自分のなかに、ハートのなかにね、花が入っているんですよ。頭のなかでは確実に一つのフォルムが、一つの型が出来上がっている。ところがクレイジーのときはそんなもんないですよ。いっても、なぜいったのかわからなったりする。クレイジーじゃないとだめですよ。忘れたころに、花がここにあった。何か知らないけど、ここに花があった。花と、さて何しているんだ。花と語り合ってるんだ。トーキングですよ、花と。トーキングしようと思って、すっといくと、いつの間にか花がなくなってしまった。とにかくクレイジーですよ、だからフリースタイルで。(p.22)</p> <p> 目がこうあるでしょう。そうするとあなたの魂が目を通してすうっと外側のほうに出かけていく。すると外側のほうから、何か鳥のようなものが飛んできて、魂の鳥のようなものが飛んでくる。そして魂のなかにすっと入ってきますか。そのために目が通りやすいようにしてありますか。目から鳥が入ってこようとしているときに、入ってこられるような目でやっていますか。いつも動作しながら、すっと入ってこられるように、すっとやらないとだめだ。魂の重要な出入りがあるようにさ。それによって自分の喜びが成立しているのか、悲しんでいるのか。どうなっているんだろう。鳥は出たり入ったりするときに、羽ばたいている。あなたの心が喜びに羽ばたいているんですか。悲しいですか、どうですか。刻々に変化している、その現実がね。目ってやつは大事にしてさ。目だけでダンスって言えるでしょう。目の世界があるんですよ。さっ、そういう目でちょっとやってみましょう。(p.25)</p> <p> 魂というのは常に動いている。分裂、拡散、増えていく。大きくなる。小さくなる。こうしてじっとしている。これは何か。耐えたってこともあるけれども、ひょっとして怠慢かもしれない。そこからいろいろ動くけれどもさ、動くけれどもそれがね、いったいソウルダンスなのかどうか。ただ頭で考えていつのまにかやっているのか、それとも魂の形としてやっているのか。どんな爪の端だって、ソウルですよ。だから大事にしてさ。あらゆる瞬間がソウルと関係あるんですよ。鉄のように、鋼鉄の物、これも一つのソウルですよ。思いがいくわけですよ。ソウルがないとダメですよ。じぁ、何か考えているの、といったとき何も考えてない、おそらく考えてない。考えてる姿勢だけでもさ、魂に見破られてしまう。顕微鏡で見ている。あれは何なのか。鬼だ。鬼、鬼の童子じゃないだろうか。やりやすいようなところばっかりじゃダメですよ。いかにもやりやすい部分、やりやすいイージーはだめですよ。パワーッ、パワフルでなくちゃ、こういうのがフリーです。(p.37)</p> <p> 人生を太く短く、細く短く、太く長く、細く長く、いろいろある。しかし細いとか太いとか、それはあなたが生きているなかでの細い太いであって、その細いも太いも生きているなかでの細い太いで、細いものが細く、太いものが太くあることによって、人間が生きていることが証明される。どれほどその細くにしろ太くにしろ、どれほど大切に大事に生きているかどうか。どんな些細な繋がりであっても、いや、これは繋がりだからどうってことないんだ。いやそんなことはない。どんな些細な繋がりであろうと、たくましい断絶であろうと、それはいきいきとしてなくちゃならない。動くことによってあなたのエネルギーとの関係のなか、ただ細く、ただ太く、という表現じゃない。細く生きる、太く生きる、それによってあなたの内部に生きる力が刻々に蓄積されなければならないんだ。だからそれが爪先であろうと、小指であろうと、何であろうと、刻々に。(p.40)</p> <p> 祭りは型にはまったものではなくして、むしろ型からはずれたところに祭りの意義がある。音に合わせるよりも、音からはずれていくところに音が生かされる。音からはずれて、ひょっとして私はバランスを失って倒れるかもしれない。そんなぎりぎりのところで音からはずれて、型からはずれて。俺が最初に祭りという言葉に接したのは終戦直後、神田でランボーの『地獄の季節』の、そのなかのたった一つの言葉「祭り」に、それが魂にこびりついていまだに頭から離れない。本道からはずれた、当然こうあるべきだというところからはずれていなければ、とても踊りになりはしない。いや、みんなこころしてやるように。これは私が自分自身に、いまさかんに言い聞かせているのだ。おまえが今度やるときは、こころしてそうあるべきだ。本道からはずれていなければならない。(p.41)</p> <P> 目を開いて、そして見ない。手を出しても反応がない。そういう目のほうがいい。これもある、あれもある、さあどうしたらいいかじゃなくて、見ない目。無心になる。じゃ勉強しなかったのか。勉強して勉強して勉強して全部捨ててしまった。捨ててしまったんではないんだ。それが自分を支えてくれる。私はそういう踊りを見るとね、あんまり派手に動かなくたって、じっと立っているだけでも、ちょっと動いただけでも、ああ、いいなと思う。(p.45)</p> <p> 舞踏とは何か。土方さんが、「舞踏とは命がけで突っ立っている死体である」、こう言った。これはどうも技術を超えた世界のように思える。想像力という問題だけを考えても、自分が想像力を作ったんじゃなくて、天地の始めから現在にいたるまで、先人が死んで、魂に刻み込んで、外側から、宇宙の側から刻み込んで、そういう長い億単位という年月のなかで、想像力というものが、積み重ねのなかで生まれた。たくさんの積み重ね。そのなかの自分。そのなかでは、テクニックなんてのは簡単に取り上げられるものじゃないと思う。技術とは何か、と言ったときに、困難のなかにある、それが技術だ。頭の中でやると、だんだんはっきりするのが技術ですよ、普通の常識からいえば。それがますますやるほど困難が入り込んでしまってさ、にっちもさっちもいかなくなる、というのが技術だと思う。私にとってね、技術的側面なんて書こうと思っても書けない。書けないのが技術だと思う。(p.58)</p> <p> 瞬間、瞬間の世界の形成に、あなたの肉体が参加できるように。どこかに連れていかれて肉体がいつのまにかその世界へ参入するかのように。それが甘かろうと辛かろうと、そんなことは関係ないことだ。甘くたっていいでしょう。辛くたっていいでしょう。渋くたっていいでしょう。味であろうと、それが香りであろうと色彩であろうと、それらがあなたにどういう関係があるのか。(p.87)</p> <p> 箸を持って御飯を食べるときに、その箸が宇宙の果てまで伸びていって、あなたが生きている証しのような、喜びのような、悲しみそのもののような箸となって、あなたが食事をするときに何気なくもつ箸が、そんな箸であってほしい。今は気づかなくてもいいが、千年たっても万年たっても気がつかないとすれば、その箸の持ち方はだめだ。(p.133)</p> <p> 漂う勇気が、死と生が背中合わせになって。言葉でなくて、あなたが発する輝きだ。宇宙全域とそのかかわりのなかで、あなたは石蹴り遊びをしているんだ。(p.173)</p> <p> さなぎから蝶に形が変わった。俺にはわからないエネルギーの燃焼があったことは間違いない。「これ以上、私はできません」。しかしその次があるんだ。そうすれば、あなたはさなぎから蝶に変身できる。そこが大事なところですよ。蝶に変身した羽はきわめて未成熟なものだった。空気に触れた、その瞬間に。しかし初めは、飛べなかったはずだ。その短い時間は、どんな時間だったんだ。命がどのように働いたんだ。意識が働いたのか。そうじゃないだろう。俺にはとても説明できない。しかし蝶が飛ぶまでに至るその短い時間が、踊りそのものだ。ある意味で超時間だ。どんな細工をしても、名人がいてもとても作れない。これはいったい何だろうか。(p.175)</p> <p> おまえの踊りがいま認められなくたって、千年万年経て誰かひとりでもいいから、認めることがあるとすれば、それは成立する。しかし、永久に誰とも関わりのない踊りはだめだ。(p.182)</p>
関連本棚: myta kw
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アウトブリード (河出文庫―文芸COLLECTION)
アウトブリード (河出文庫―文芸COLLECTION)
著者: 保坂 和志
出版社: 河出書房新社
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コメント: <p> 文学は本来、言語化が可能なものと不可能なものに意識的で、言語化の領域を広げるために存在してきたジャンルのはずで、このかぎりにおいて哲学や科学と関係を持つことができた。<br>  言語化不可能な領域を触らずにそこを神聖化すれば一つ小説が生まれるし、その不可能な領域に人智を超えた象徴的な存在を据えればもう一つの小説が生まれる。前者は人間が運命や不可知なものに翻弄される話になり、後者は構えの大きい「神話的」などと呼ばれる話になるが、どちらも人間が愚かなまま放置される点で変わりない。だから言語化の領域を広げようという意識のない、“物語”という話法は滅びるべくして滅んでいく。<br>  もう一つ、広い意味での科学的言説に寄りかかって、たとえば「人間は所詮、一つ一つの臓器が機械的に機能しているものの総体でしかない」と言ってみたり、神秘体験のような、いまの科学の言語の外にあるがために説明する必要がないとされるものを、個々の人間の内部で起こったささいな錯覚の産物として片づけてしまうことも、同じように言語化可能な領域を広げない、どころかむしろ狭める。〔そして同時に、それら科学の言語の外にある事象にたやすく名前をつけていく神秘体験重視の人たちにとって、<b>科学的言語信仰者</b>による批判は何のインパクトもない。両者は乖離する一方だ。〕<br>  言語化の領域を広げていく作業は遅々たる進展しかしてこなかった。これからもそうだ。<br>  ここから先は限定した一例になるが、遅々たる言語化領域の拡張に比べて、テクノロジーによって人間の感覚の未知の領域を広げるような方法は次々に作り出される。「見る」「聞く」「触れる」……etc.は世界観を簡単に揺るがすことができる。神秘体験と同質の体験を演出することもどんどん可能になるだろう。それらは思えばありきたりのSF映画の光景で、事態はいまさら恥ずかしくてSFに描けないくらいあたり前になりつつあるということなのだろうが、人はそういう身体的刺激にとても弱い。感覚が開かれていくことは実際、快感だ。<br>  そのとき、〈至福〉とか〈おぞましい〉というような、感覚に基づいて経験の程度を形容する言葉は空疎になる(本当は昔からずっと空疎だった)。形容するだけの言葉は絶対に経験のリアリティを再現できない。言語はそこで起きたことを正確に記述しようとしなければならない。「読む」「書く」(と、それによる思考であるところの文学)が生きのびる可能性の一つは、言語がいまよりもっとずっと解析的に使われることのはずだが、人はそれを望んでいるだろうか。(p.31-)</p>
関連本棚: yudemen myta nue
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アナーキスト人類学のための断章
アナーキスト人類学のための断章
著者: デヴィッド グレーバー
出版社: 以文社
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コメント: <p> だが最終的にはマルセル・モースこそ、他の人類学者たちを束にしたよりもアナーキストたちに影響力を持つこととなった。それは彼が、代案的[オルタナティヴ]な道徳律に関心を払い、「国家と市場のない社会は、彼らがそのように生きることを積極的に望んだためにそうなった」という考え方を開示したからである。それは今日では「彼らがアナーキストだったからだ」ということを意味する。したがってアナーキスト的人類学がすでに実在するならば、それはモースからきていると言えるのだ。<br>  モース以前に広く行き渡っていた前提は、貨幣や市場なき経済は「物々交換[バーター]」によって機能している、ということであった。それらは(有効な物品やサービスをできるだけ負担のない方途によって獲得し、可能な限り豊かになろうという)「市場的ふるまい(behavior)」をなしながらも、それをさらに発展させる洗練された方法を持っていなかった、と考えられていた。しかしモースが証明したのは、このような経済は実際には「贈与経済」だったということである。それらは計算に依拠していなかった。むしろそれを拒絶していた。それらは、われわれが経済の基本原理とみなしているほとんどを意識的に拒絶する倫理体系に根ざしていた。それらは、いまだにもっとも有効な方法で利潤を得ることを学んでいなかった、のではない。それらは−−少なくとも自分の敵でない誰かに対して−−最大の利益を引き出す目的で経済的取り引きをすることは、攻撃的な行いであるという前提を確立していたに違いない。<br>  昨今の記憶において、はっきりアナーキストと自認する(希少な)人類学者は、やはりフランス人のピエール・クラストル(一九三四−一九七七)であろう。彼が政治的な次元で似た思考を展開していたことは意義深い。彼の考えによると、政治的人類学は、国家とはそれ以前に存在した組織形態がより洗練されたものであるという進化論的視点を抜け出していなかった。たとえば彼自身が調査したアマゾン社会の国家なき人びとは、アステカやインカのような段階に達していない、というのが暗黙の前提であった。そこで彼が投げかけた問いは、アマゾンの人びとが、国家権力の初期段階的形態にまったく気づいていないわけでなかったら? ということであった。彼らは、ある一定の男たちが、暴力の脅威に裏づけられて、他の者に対して有無を言わせず命令するようになったらどうか気づいていないわけではなく、そのためにこそ、そのようなことが絶対起こらないように心掛けていたのではないか? 彼らは、われわれの政治科学が基本的前提としていることが、道徳的に間違っていると考えていたのではないか?<br>  上記二者の議論の平行関係は、実に刺激的である。贈与の経済においても、諸個人を事業化する方途は存在している。だがそこではすべてが、恒常的な富の不平等を生み出す土壌を提供しないように配置されている。そして自己拡張的な人びとは、誰がより多く譲渡するか競合することに帰結する。アマゾン(や北米先住民)社会においては、首長(chief)の制度が、政治的な次元で似た役割を担っていた。その位置に就くことは、あまりにも要請が厳しく、報酬が小さく、常時、護衛に堅く取り囲まれているために、権力好きな個人がそれを弄んでいい目を見るようにはできていなかった。アマゾンの人びとが、実際にしばしば支配者の首を刎ねていたというわけではない。だが、そのような隠喩(メタファー)が、まったく的外れだったわけでもないのである。(p.61-)</p>
関連本棚: myta
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暴力について―共和国の危機 (みすずライブラリー)
暴力について―共和国の危機 (みすずライブラリー)
著者: ハンナ アーレント
出版社: みすず書房
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コメント: <p> <b>権力</b>(power)は、ただたんに行為するだけでなく[他者と]一致して行為する人間の能力に対応する。権力はけっして個人の性質ではない。それは集団に属するものであり、集団が集団として維持されているかぎりにおいてのみ存在しつづける。われわれは、だれかが「権力の座について」いるというとき、それは実際のところ、かれがある一定の数の人からかれらに代わって行為する権能を与えられていることを指しているのである。権力がはじめにそこから生じてきた集団(〈権力は人民にあり〉postestas in popuro、人民もしくは集団なくして権力は存在しない)が姿を消すやいなや、「かれの権力」もまた消滅する。現在の言葉遣いで、「有力者(powerful man)」や「有力な人物(powerful personality)」という場合には、われわれはすでに「権力[パワー]」という語を比喩的に用いているのであり、比喩なしにいうと、それは「力[ストレンクス]」となる。</p><br> <p> <b>力</b>(strength)は紛れもなく単数の、個体的実在のうちにある何かを指している。それは物または人に固有の性質であり、その特性に属すものであって、他の物や人間との関係のなかでその存在が証明されるであろうが、本質的には他の物や人間からは独立している。いかに強力な個人の力といえども多数者には力負けするのがつねであり、多数者は、力が特殊な独立性をもっているからこそ、その力を挫くためだけに結びつくこともしばしばある。一者にたいする本能的といってもいい多数者の敵意は、プラトンからニーチェにいたるまで、つねにルサンチマンに、つまり力の強い者(the strong)にたいする力の弱い者(the weak)の羨望に由来するとされてきたが、しかしこの心理学的な解釈は的を射ていない。個体的な力の性質である独立性に敵対するのは集団とその権力の本性によることなのである。</p><br> <p> <b>強制力</b>(force)は、日常の会話のなかでは暴力、とりわけ強制の手段としての暴力と同義語として使われることが多いが、専門用語としては「自然の力[フォース]」や「事の成り行き」(la force des choses)、すなわち物理的または社会的運動から発せられたエネルギーを指す場合に用いられるべき用語である。</p><br> <p> <b>権威</b>(authority)は、これらの現象にかんして最もとらえどころがなく、それゆえ述語としては最も頻繁に濫用されているが、権威は人間に付与されることもあり−−たとえば親と子の関係や教師と生徒の関係におけるような人格的権威のようなもの−−、また、たとえばローマの元老院(〈元老院に権威あり〉auctoritas in senatu)や教会の聖職位階制における職(聖職者は、たとえ酩酊していても、かれの行う罪の赦しは有効である)のような役職に付与されることもある。権威は、それに従うように求められた者が疑問を差し挟むことなくそれを承認することによって保証されるのであって、強制も説得も必要ではない。(父親は子どもを殴ることによっても、あるいは子どもと議論することによっても、いいかえれば、子どもにたいして暴君として振る舞うことによっても、あるいはかれを対等の者として扱うことによっても、みずからの権威を失うことがある。)権威を維持するためにはその人間もしくはその役職への尊敬の念が求められる。それゆえ、権威の最大の敵は軽蔑であり、権威を傷つける最も確実な方法は嘲笑することである。</p><br> <p> 最後に<b>暴力</b>(violence)は、すでに述べたように、道具を用いる[インストルメンタル]という特徴によって識別される。現象的にみれば、それは力に近い。なぜなら、暴力の機器は、他のあらゆる道具と同じように、自然の力[ストレンクス]を増幅させるという目的で設計され使用され、その発達の最終段階では自然の力にとってかわることができるからである。(p.133-)</p>
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ダブリンの市民 (岩波文庫)
ダブリンの市民 (岩波文庫)
著者: ジョイス
出版社: 岩波書店
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コメント: <p> 窓ガラスを軽くたたく音が二、三度聞こえ、彼は窓のほうへ目をやった。ふたたび雪が降り出していた。彼は眠そうな眼ざしで銀や黒の切片が街灯の明かりを背景にして斜めに降るのをながめた。自分も西への旅に出る時が来た。まさしく、新聞の通りだ。雪はアイルランドじゅうに降っている。暗い中央平原の各地にも、木の生えていない丘陵にも降り、アレンの沼地にもやさしく降り、さらに西では、暗く騒ぎ立てるシャノン川の波にもやさしく降っている。またマイケル・フェアリーが埋葬されている、丘の上の淋しい教会墓地の至る所にも降っている。歪んだ十字架や墓石の上に、小さな門の槍の先にも、不毛な茨の上にも厚く降り積もっている。彼の魂はゆっくりと知覚を失っていった。雪が宇宙にかすかに降っている音が聞こえる。最後の時の到来のように、生者たちと死者たちすべての上に降っている、かすかな音が聞こえる。(p.406)</p>
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エリック・ホッファー自伝―構想された真実
エリック・ホッファー自伝―構想された真実
著者: エリック ホッファー
出版社: 作品社
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コメント: <p> 人間という種においては、他の生物とは対照的に、弱者が生き残るだけでなく、時として強者に勝利する。「神は、力あるものを辱めるために、この世の弱きものを選ばれたり」という聖パウロの尊大な言葉には、さめたリアリズムが存在する。弱者に固有の自己嫌悪は、通常の生存競争よりもはるかに強いエネルギーを放出する。明らかに、弱者の中に生じる激しさは、彼らに、いわば特別の適応を見出させる。弱者の影響力に腐敗や退廃をもたらす害悪しか見ないニーチェやD・H・ロレンスのような人たちは、重要な点を見過ごしている。<br>  弱者が演じる特異な役割こそが、人類に独自性を与えているのだ。われわれは、人間の運命を形作るうえで弱者が支配的な役割を果たしているという事実を、自然的本能や生命に不可欠な衝動からの逸脱としてではなく、むしろ人間が自然から離れ、それを超えていく出発点、つまり退廃ではなく、創造の新秩序の発生として見なければならないのだ。(p.67)</p> <p> 慣れ親しむことは、生の刃先を鈍らせる。おそらくこの世界において永遠のよそ者であること、他の惑星からの訪問者であることが芸術家の証なのであろう。(p.147)</p>
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灯台へ (岩波文庫)
灯台へ (岩波文庫)
著者: ヴァージニア ウルフ
出版社: 岩波書店
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コメント: <p> こうして家は空っぽになり、ドアには鍵がかけられ、敷物類は巻き上げられたので、巨大な軍勢の前哨とも言うべき迷い風たちは、何の遠慮もなく侵入し、むき出しの板壁をこすったり、あちこちとかじったり煽いだりしたが、寝室にも客間にもそれに強く抵抗するものはもはやなく、ただ破れかけの壁紙が揺れ、床板がきしみ、装飾のないテーブルの脚や、すでにほこりを被って曇ったりひび割れたりしたシチュー鍋や陶器類が目につくばかり。人間たちが脱ぎ捨て、置いていったもの−−靴が一足に鳥打帽、洋服箪笥の中の色あせたスカートやコートなど−−それらはかろうじて人間の形をとどめていて、そのうつろさがかつて身につけられていた頃の生き生きとした動きを偲ばせ、ホックやボタンを留めようと、いくつもの手がいかに忙しく動いていたかを思い出させた。打ち捨てられた姿見も、以前は人の顔をはっきりと映し、一つの世界をそこにすくい取ってみせていたものだ−−その世界の中で、人が振り向き、手がひらめくように現われ、ドアが開き、子どもたちが騒がしくなだれ込んでは出て行ったのだ。それが今では、来る日も来る日も単調に差し込む光を映すばかりで、その光は水に映る花影のような澄みきった像を反対側の壁に落としていた。時折木々の影が風にあおられ、壁に向かってお辞儀をするように大きく揺れると、光を宿す鏡の陽だまりが、一瞬暗さを帯びる。あるいは鳥が窓辺を飛ぶ時など、寝室の床の上に、やわらかな染みのような影がゆっくりとひらめき過ぎるのが見られた。(p.246-)</p>
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定本 映画術 ヒッチコック・トリュフォー
定本 映画術 ヒッチコック・トリュフォー
著者: フランソワ トリュフォー, アルフレッド ヒッチコック
出版社: 晶文社
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カテゴリ: 映画
コメント: <p><b>T</b>[トリュフォー] 要するに〈サスペンス〉と〈サプライズ〉のちがいとは何でしょうか。</p> <p><b>H</b>[ヒッチコック] サスペンスとサプライズのちがいは簡単明瞭だ。たしかに多くの映画がこのふたつの効果を混同しているが、ちがいははっきりしている。<br>  いま、わたしたちがこうやって話しているテーブルの下に時限爆弾が仕掛けられていたとしよう。しかし、観客もわたしたちもそのことを知らない。わたしたちはなんでもない会話をかわしている。と、突然、ドカーンと爆弾が爆発する。観客は不意をつかれてびっくりする。これがサプライズ(不意打ち=びっくり仕掛け)だ。サプライズのまえには、なんのおもしろみもない平凡なシーンが描かれただけだ。では、サスペンスが描かれるシチュエーションはどんなものか。観客はまずテーブルの下に爆弾がアナーキストか誰かに仕掛けられたことを知っている。爆弾は午後一時に爆発する、そしていまは一時十五分まえであることを観客は知らされている(この部屋のセットには柱時計がある)。これだけの設定でまえと同じようにつまらないふたりの会話がたちまち生きてくる。なぜなら、観客が完全にこのシーンに参加してしまうからだ。スクリーンのなかの人物たちに向かって、「そんなばかな話をのんびりしているときじゃないぞ! テーブルの下には爆弾が仕掛けられているんだぞ! もうすぐ爆発するぞ!」と言ってやりたくなるからだ。最初の場合は、爆発とともにわずか十五秒間のサプライズ(不意打ち=おどろき)を観客にあたえるだけだが、あとの場合は十五分間のサスペンスを観客にもたらすことになるわけだ。つまり、結論としては、どんなときでもできるだけ観客には状況を知らせるべきだということだ。サプライズをひねって用いる場合、つまり思いがけない結末が話の頂点[ハイライト]になっている場合をのぞけば、観客にはなるべく事実を知らせておくほうがサスペンスを高めるのだよ。(p.60-)
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牛乳の作法 (ちくま文庫)
牛乳の作法 (ちくま文庫)
著者: 宮沢 章夫
出版社: 筑摩書房
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コメント:  かつて私は放送の仕事をしていた。それをすべてやめることにし、外国に長期の旅行をしたのはちょうど十年前だ。旅行から得るものは数多くあったが、帰ってからのことはなにもあてがなかった。仕事をしないのだから当然、収入がなく、先の展望も見えず、さらに、ある個人的な事情も重なり、途方に暮れるばかりだった。もう三十歳を過ぎていた。あたりまえに考えるなら、仕事も生活も、安定してもいい頃で、二十代の前半に誰もが味わう「途方に暮れる日々」の、あのあっけらかんとしたものなどどこにもなかった。<br>  茫然とするしかなかった。<br>  どこでどうなってしまったのか自分でもよくわからない。わからないうちにそうなっていた。とりあえず、すべては自分で決めたことだとあきらめるしかない。<br>  坂口安吾の『白痴』を読んだのはその頃のことだった。<br>  たとえば、次のような一節が、そのときの私にとって、どれほど大きな意味を持っただろう。<br> 「どうにでもなるがいい、ともかくこの現実を一つの試練と見ることが俺の生き方に必要なだけだ」<br>  そして、作品中、「白痴」と表現される女の肉体が放つ小さな揺れは、それまで、「言葉」に対して持っていた私の様々なイメージや考えを捨てさせるに充分だった。<br>  もちろん坂口安吾の作品は数多く読んでいたが、途方に暮れ、茫然とする日々の中で、『白痴』の全編に流れる言葉に私は出会った。身体に直接、震動を響かせる力があった。それがそうした読書のはじめての経験だったのかもしれない。もちろん、受け止める私の側に、言葉と向き合うだけの状況があったからにちがいなく、身体が受け止める言葉にこそ、ほんとうの力が存在するとはじめて実感したのだ。きれいごとや、うそくさい善意、あるいは知的を装うスタイルなど、どれにも震動を伝える力などありはしない。<br>  あれから私は、自分の劇作においても、身体を通し、身体が発し、身体へと伝わってゆくはずの言葉のことばかり考えている。<br>  どのようにそれは生まれるのだろう。<br>  いまというこの時間に、くっきりとした、「身体」の出現する言葉を私は探している。坂口安吾から多くを学ぶのは当然だが、もちろんそれは、坂口安吾が表現した言葉とは異なる、また新しい姿をしているにちがいない。<br>  私にとっての「茫然とした日々」は、おそらくあれからずっと続いているのだ。いまだってあのときと同じようなものだ。それが出発点だ。『白痴』は私にそれを教えてくれた。言葉から発する揺れが、身体を通じ、身体に伝えられることによって。(p.82-、「白痴」より)
関連本棚: ゆげ myta
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ジェンダー・トラブル―フェミニズムとアイデンティティの攪乱
ジェンダー・トラブル―フェミニズムとアイデンティティの攪乱
著者: ジュディス バトラー
出版社: 青土社
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コメント: <p> セックスそのものがジェンダー化されたカテゴリーだとすれば、ジェンダーをセックスの文化的解釈と定義することは無意味となるだろう。ジェンダーは、生得のセックス(法的概念)に文化が意味を書き込んだものだと考えるべきではない。ジェンダーは、それによってセックスそのものが確立されていく生産装置のことである。そうなると、セックスが自然に対応するように、ジェンダーが文化に対応するということにはならない。ジェンダーは、言説/文化の手段でもあり、その手段をつうじて、「性別化された自然」や「自然なセックス」が、文化のまえに存在する「前−言説的なもの」−−つまり、文化が<b>そのうえで</b>作動する政治的に中立的な表面−−として生産され、確立されていくのである。「セックス」が本来的に社会構築されたものでないとみなす考え方は[……]セックスの内的安定性やその二元的な枠組みを打ちたてるのにもっとも効果的な方法が、じつは、セックスの二元体を言説以前の領域に追いやることだということである。セックスを前−言説的なもの<b>として</b>生産することは、<b>ジェンダー</b>と呼ばれる文化構築された装置がおこなう結果なのだと理解すべきである。したがって、たとえジェンダーを再定義したとしても、それが言説に先行するセックスという概念を結果として生み出しておきながら言説のこの生産作用を隠蔽する権力関係を包み込むようなジェンダー理解となるならば、ジェンダーを再定義する必要などどこにあるだろうか。(p.29)</p> <p> これまで指摘しようとしたことは、アイデンティティのカテゴリーは、たいていの場合フェミニズムの政治の基盤とみなされてきたが−−つまり、フェミニズムをアイデンティティの政治として起動させるために必要なものと考えられてきたが−−同時にそれは、フェミニズムが開くつもりの文化の可能性を、まえもって制限したり限定するためにはたらくものでもあるということだ。文化的に理解可能な「セックス」を作りだす暗黙の制約は、自然化された基盤などではなく、自己産出的な政治構造だと理解されなければならない。皮肉なことに、アイデンティティを<b>結果</b>−−<b>生産され、産出されるもの</b>−−とみなす再概念化は、アイデンティティのカテゴリーを基盤的で固定的と捉える位置によって巧妙に排除されていた「行為体」の可能性を、開いていくのである。アイデンティティが結果だということは、それが宿命的に決定されているとか、完全に人工的で任意のものだという意味ではない。<b>構築された</b>ものというアイデンティティの位置を、この二つの矛盾した見方でまちがって解釈してしまうと、文化構築についてのフェミニズムの言説は、自由意志と決定論という不必要な二分法の罠のなかにまたもや陥ってしまう。構築は行為体と対立しているわけではない。構築は行為体の必須の場面であり、行為体が分節化され、文化的に理解可能となる次元なのである。フェミニズムがしなければならない批判的作業は、構築されたアイデンティティの外側にフェミニズムの視点を打ち立てることではない。そんなことをすれば、フェミニズム自身の文化的位置を否定し、ひいては包括的な主体として−−フェミニズムが批判すべき帝国主義的な戦略を配備する位置として−−邁進する認識論のモデルを構築してしまうことになる。そうではなくて批判的な作業というのは、まさにそういった構築によって可能になっている攪乱的な反復の戦略をとること−−つまり、アイデンティティを構築するものでありながら、またそれゆえにその反復実践に異を唱える内在的な可能性を提示するような反復実践に、みずから参与し、それによって局所的介入をおこなう可能性を支持していくこと−−なのである。(p.257-)</p>
関連本棚: mercilavie myta orijima kebab ししゃも
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