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暴力について―共和国の危機 (みすずライブラリー)

ハンナ アーレント
みすず書房
ISBN: 4622050609  紀伊國屋, Amazon, WebCat
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myta :

 権力(power)は、ただたんに行為するだけでなく[他者と]一致して行為する人間の能力に対応する。権力はけっして個人の性質ではない。それは集団に属するものであり、集団が集団として維持されているかぎりにおいてのみ存在しつづける。われわれは、だれかが「権力の座について」いるというとき、それは実際のところ、かれがある一定の数の人からかれらに代わって行為する権能を与えられていることを指しているのである。権力がはじめにそこから生じてきた集団(〈権力は人民にあり〉postestas in popuro、人民もしくは集団なくして権力は存在しない)が姿を消すやいなや、「かれの権力」もまた消滅する。現在の言葉遣いで、「有力者(powerful man)」や「有力な人物(powerful personality)」という場合には、われわれはすでに「権力[パワー]」という語を比喩的に用いているのであり、比喩なしにいうと、それは「力[ストレンクス]」となる。


 (strength)は紛れもなく単数の、個体的実在のうちにある何かを指している。それは物または人に固有の性質であり、その特性に属すものであって、他の物や人間との関係のなかでその存在が証明されるであろうが、本質的には他の物や人間からは独立している。いかに強力な個人の力といえども多数者には力負けするのがつねであり、多数者は、力が特殊な独立性をもっているからこそ、その力を挫くためだけに結びつくこともしばしばある。一者にたいする本能的といってもいい多数者の敵意は、プラトンからニーチェにいたるまで、つねにルサンチマンに、つまり力の強い者(the strong)にたいする力の弱い者(the weak)の羨望に由来するとされてきたが、しかしこの心理学的な解釈は的を射ていない。個体的な力の性質である独立性に敵対するのは集団とその権力の本性によることなのである。


 強制力(force)は、日常の会話のなかでは暴力、とりわけ強制の手段としての暴力と同義語として使われることが多いが、専門用語としては「自然の力[フォース]」や「事の成り行き」(la force des choses)、すなわち物理的または社会的運動から発せられたエネルギーを指す場合に用いられるべき用語である。


 権威(authority)は、これらの現象にかんして最もとらえどころがなく、それゆえ述語としては最も頻繁に濫用されているが、権威は人間に付与されることもあり−−たとえば親と子の関係や教師と生徒の関係におけるような人格的権威のようなもの−−、また、たとえばローマの元老院(〈元老院に権威あり〉auctoritas in senatu)や教会の聖職位階制における職(聖職者は、たとえ酩酊していても、かれの行う罪の赦しは有効である)のような役職に付与されることもある。権威は、それに従うように求められた者が疑問を差し挟むことなくそれを承認することによって保証されるのであって、強制も説得も必要ではない。(父親は子どもを殴ることによっても、あるいは子どもと議論することによっても、いいかえれば、子どもにたいして暴君として振る舞うことによっても、あるいはかれを対等の者として扱うことによっても、みずからの権威を失うことがある。)権威を維持するためにはその人間もしくはその役職への尊敬の念が求められる。それゆえ、権威の最大の敵は軽蔑であり、権威を傷つける最も確実な方法は嘲笑することである。


 最後に暴力(violence)は、すでに述べたように、道具を用いる[インストルメンタル]という特徴によって識別される。現象的にみれば、それは力に近い。なぜなら、暴力の機器は、他のあらゆる道具と同じように、自然の力[ストレンクス]を増幅させるという目的で設計され使用され、その発達の最終段階では自然の力にとってかわることができるからである。(p.133-)

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最終更新 : 2007-02-26 15:20:42 +0900
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