ライトノベル系の小説で、(いや、ライトノベルに限らないかもしれないが)こういう「予定調和的」な設定が好まれる傾向ってあるのかな、と思う。
設定のつじつまが合っているとか、あの伏線がここで効いている、とか。
それ自体はよくあるんだけど、なんかそれのみを追求してるんじゃないかと思われることがたまにある。
谷川 流の小説、特に時間移動を扱う物語では、特に顕著だと思う。涼宮ハルヒしかり、学校シリーズしかり。
この小説も、時間移動こそ出てこない(ま、あるにはあるが)ものの、この「予定調和趣味」とでもいうようなフォーマットに完璧に適合する。
ある意味、「名人によるチェスの一手」のような味わいでもある。論理的に、かつ必然的に、おさまるべき所へ収まっていく、みたいな。
それ自体は、才能でもあろうし、キライではない。
...が、個人的にはダメ出しておこう。
なんというか、予定調和的整合性を追求するあまり、はしょられているディテールがあまりにも多いのだ。
詳しくはネタバレになるから書けないが、あの一族があのような形で成り立っている背景とか、主人公が壊れていく仮定とか。
そのあたりがあまりに断片的かつ断言的に語られるのみであるのは、それ自体が「舞台装置」であり「説明すべき部分ではない」、という意図であろうというのはある程度想像できる。
しかし逆にこの妙にこじんまりした世界観を維持するための作為にも見える訳で、ひょっとして紙面が足りないとか本来は前後編くらいにしたかったのかとか続編を考えているのかとか色々考えてしまう。
とはいえ、単発の実験作としてなら許容できるかな。シリーズ化したらさすがに見限るぞ。
(知人につっこみをいれられたので、少し編集してみた)
|