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日本人はなぜキツネにだまされなくなったのか (講談社現代新書)

内山 節
講談社
ISBN: 4062879182  紀伊國屋, Amazon, WebCat
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manato : [071128]日本人はなぜキツネにだまされなくなったのか[内山節] <要約>  「なぜキツネに化かされなくなった」、これがこの本の中心を比喩的に表現する的を得た言葉と言える。戦後、高度経済成長へと入っている1965年以前と以降では、日本経済がどんどん活力を吹き返してくるということが世間一般で言われていることであるが、大きく変化したものはそれだけではない。−−「キツネに化かされる」、”以前”の人は、特に著者が言う”上野村”では化かされることは日常的なこととして考えられていた。しかし”以後”、全くこのような話を聞かなくなったと内山節氏は言う。  日本にこの一つの大きな”革命”がもたらされたことにより、伝統的な精神が衰弱し同時に日本の自然環境が大きく変化し、それまで二人三脚で相互にコミュニケーションをとり助け合って生きてきた関係が、崩れていった。同時に、人の「人間性」にも大きな変化が見られるようになった。   一般的に、「歴史」として過去を捉える場合、用いられるのは科学的に根拠を明示できるもので、「知性による歴史」によるものである。しかし、実際に本当の意味での過去を捉えるには、それでは捉えるには物足りなく、「身体性の歴史」(実際にその当時の現場で触れたものの中にのみ存在する可能性があるもの。然し、記憶を掘り起こすために完全なものではない。)、「生命性の歴史」とこの3つを持って振り返ることでしか、過去を捉えるに近づくことは難しいのではないかと言う。  つまり、「過去」は近代科学的な”合理性”を持ってして捉えるのではなく、”言葉にできないもの”に代表されるものから摘み取らなければならないことであると言えよう。 ・「知性」を介してしか捉えられない世界であるが為に、「身体性」、「生命性」による総合的な「環境」という充実感が無い。 ・「以前」には、自然や集落(共同体)の人々に「人」は包まれていた。「私」とはそのような中で形成されていた。身体性。 <考察> ・「欲」(快)の方向性  高度経済成長期にある日本(人)が感じていたもので今には無きものに、「日本の将来への希望」と言える、物質がどんどん努力を持って豊かとなるプロセスに、「快」という欲を覚えたのではないか。   この「欲」の方向性というのは「都市と田舎」を考えるに当たり相当重要なものであり、そういう意味では「都市」には都市の、「田舎」には田舎の「欲の方向性」というものがある。つまり、”快感指数”というものが図れるのなら別だが、そうでない限り、欲を比較することはできない。それぞれが別の方向へ、「生きがい」を創造しているのである。 →ここから考えるとするなら、この「欲の方向性」を代表する「生きがい」は、”ハイブリッド”として、相乗する ことはできないのだろうか。例として具体的に述べるなら、「都市と田舎」の悪い部分を埋め合わせ、良いところのみを合わせることは不可能なのだろうか。→ これを考えるなら、小規模でもいいので「モデル」を見つける、あるいは考えて創りだす必要がある。  日本は世界的にも「自然」、「気候」に恵まれた「風土」であるが、その恵まれた「環境」の中に、一つの「快」が存在することは間違いない。DNAにもある可能性はあるが、外人が日本の風土に感動し、 変化することが見られるように、やはり「環境」それ自体が「快」なのではないか?→そういう意味での、今には無い「物質的な豊かさ」が存在する。 ・「大切にするもの」   僕自身がこれを読み価値観への新たな変更を迫ったものとして、それまで、「人の存在を大切にする」という、より良い文明はいかなるものかを模索する状態に あったわけであるが、今回更に加えて、「環境を大切にする」ということの大切さが身に染みたと言えよう。自然を保護することは、「ものを所持する」ように 大切にすることが必要なのではなく、僕たち人と、「自然」を代表する環境との関係性を、「環境破壊」などによって途切れさせてはいけないということなのだと考えさせられた。  
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最終更新 : 2007-12-20 11:16:10 +0900
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